ハーネマンの人生
ハーネマンとそれ以前の先人たち~ヒポクラテス、パラケルスス
ホメオパシーは、創始者サミュエル・ハーネマン(1755年ドイツ、マイセンに生まれる)によって始められました。
でもその先人には、ギリシャ時代のヒポクラテスや、連金術師パラケルススのような、病人を類似の法則(似たものが似たものを癒す)によって治療を行った人がいました。
ヒポクラテス(紀元前460?370年)は、古代ギリシャ、ペリクレス時代の医師です。
「医学の祖」と呼ばれ、類似の法則を世界で最初に実践した人として知られています。
パラケルススは1493年スイスのアインジーデルンに生まれました。
彼は錬金術師であると同時に医師であり、占星家でオカルティスト(神秘学者)でもあったのです。
彼はまた類似の法則と最小投与を実践し、後年ハーネマンによってプルービングがなされた多くの鉱物を使用していました。
万能の天才ハーネマン
修士号を持つ薬剤師であり、有能な言語学者であり、7ヶ国語を操る翻訳者であり、今日の自然食や健康的な生活習慣の普及活動を行う自然療法家の先駆者でもありました。
彼はまた、史上初の精神科医とも称されています。
近代において、精神を病む患者に対し、レメディで癒すだけでなく人道的な処置をも働きかけた人物です。
コッホやパスツールの数十年前に、彼は伝染病の本質を理解し、19世紀前半にヨーロッパを震撼させた恐ろしい病の流行に対し、見事な処置を行いました。
ハーネマンは科学に関する多くの書物を著しました。中でも最も有名なものは、砒素中毒に関する専門書です。
批評家達は後に、あんなインチキ医者にさえならなければハーネマンは偉大な科学者になっただろうにと言ったとされています。
1789年に彼はライプチヒに引っ越し、梅毒に関する専門書を出版しました。
彼が新たに確立した水銀の調合に関する特筆すべき内容であり、これは今日「ハーネマンの水銀」として知られています。
ハーネマンの著作と化学は、僅かな収入にしかならず、家族はしばしば最低限の生活必需品にも不自由していました。
石けんを買うことができないため、ハーネマンは洗濯物を生のじゃがいもでこすって洗っていたという痛ましい逸話さえ残っています。
ホメオパシーの発見と苦悩
そして同僚達から、悪評、冷笑、反発をかうこととなるのです。彼はとりわけ、当時盛んだった瀉血に対し批判的でした。
ハーネマンはこの時点で既に、衛生と食事が 大切であると考え、なるべく肉の摂取量を減らし、牛乳よりも山羊や羊の乳を飲む方がよいと主張していたのです。
1791年にハーネマンはW.カレンのマテリアメディカを翻訳中、驚くべき洞察を得ました。
W.カレンは、キナ皮がその苦みのためにマラリアの特効薬だとしたのですが、ハーネマンは他の苦いハーブがマラリアに効果を有しないことを知っていました。
主として経済的な事情のために、彼は村から村へと居を移し、その度に医師や薬剤師達から激しい攻撃を受け続けました。
独自に調合した薬を使う彼の診療は、彼らの妬みをかったのです。そして薬剤師達は、自分たちの特権を侵害したかどで彼を訴えました。
不幸なことに彼の敵対者達は勝訴し、ハーネマンは自分の薬の調剤を禁じられてしまったのです。
1796年にハーネマンは「薬のもつ治癒力の究明についての新たな原理に関する小論」を出版し、
その中で初めて、類似の法則について述べています。
また、このエッセーの中で彼は、他の多くの事柄と共に、医療における植物のもつ有効性についても言及しているのです。
1800年の猩紅熱の流行により、ハーネマンは彼の新しい医療の有効性を世に喧伝するチャンスを得ました。
類似の法則と同時に、高度希釈、ポーテンタイズという概念に基づき、調剤された薬によってです。
オルガノンの出版
この著作は彼の新しい治療法の基礎となりました。類似の法則だけでなく、ポーテンタイズされた薬の単一投与、できうる限りの最小投与、そして健康な人間において確かめられたレメディーだけを投与するということを著していました。
それによりハーネマンはライプチヒ大学で教鞭を執るための、論文を提出するチャンスを与えられたのです。
1812年6月、ハーネマンは論文「古代におけるクリスマスローズを用いた治療に関する歴史的・医学的学術論文」をラテン語で講述したところ、ヨーロッパの大学教授を寄りすぐって集められた聴衆は何と一言も言葉を発することができませんでした。
続く数年の間、ハーネマンは自分自身や家族によってたくさんのレメディーのプルービングを行い、1814年からは、親しい友人や賛同者達(「プルーバー組合」と呼ばれた)に対象を広げていきました。
これらのプルーバー達はグロス、シュタップ、ハルトマン、リュッケルトなど彼の最初の弟子達でした。
1813年にもまた、成功を手にしました。
ナポレオンの兵士達がロシアに侵攻した後に発生したチフスの流行に、ホメオパシーで対処したのです。
チフスの猛威はすぐにドイツに拡がり、そこでハーネマンは初期のうちにブライオニアとルス・トックスを用いて患者を治癒に導いたのです。
またもや彼は独自の薬を調剤したために、薬剤師達の特権を侵害したかどで攻撃を受けることとなってしまいました。
1820年ライプチヒ市議会はハーネマンにこれを中止するように命じたのです。
彼らによる迫害は1821年にピークを迎え、ハーネマンはドイツのケーテンに移り住むことを余儀なくされました。
しかし、そこで彼はフェルディナンド・アンハルト=ケーテン公爵の庇護を受けることになりました。
公爵は彼の患者でもあり、公国においてハーネマンが医師として診療し、また使用する薬剤を調剤することを許したのです。
彼の妻ヨハナは11人の子どもを産み、1830年に重症の肺カタルで亡くなりました。
その後も残った娘達、主にシャルロッテとルイーゼがハーネマンの面倒をよく見ました。
彼の生徒であったドクター・モスドルフが娘の一人と結婚し、彼のアシスタントとなりました。
この頃ハーネマンは、慢性病に対する彼の次なる到達点である「マヤズム」の概念を構築したのです。
慢性病論の出版
彼の最も忠実な理解者達(シュタップ、グロス、へリング、そしてベニングハウゼン)はこの概念を十分に理解したのですが、殆どのホメオパス達にとってはあまりに突飛な説だと映りました。
1831年にホメオパシーはまた大きな勝利を収めました。
今度は、ロシアの西から拡がったコレラの流行です。この強い感染力を持つ病に、アロパシー医学は無力でした。
ハーネマンが用いたレメディーはカンファ(樟脳)、キュープロム(銅)とベラチュラム(バイケイソウ)でしたが、これらは現在においてもコレラの流行に対して最も頻繁に使われるレメディーです。
ケーテンでハーネマンは、新しい精力的なアシスタント、ドクター・ゴットフリート・レーマンを得、彼はハーネマンの最も忠実な助手となったのです。
しかし、ハーネマンはライプチヒ周辺の「偽ホメオパス達」に不満を抱いており、彼らからどんどん距離を置くようになりました。
メラニーとの再婚とパリでの晩年
32歳(35歳かもしれない)のこの若い女性は80歳の年老いたやもめを夢中にさせ、彼らは初対面から僅か3か月後には結婚したのです。
80年もの苦闘と、貧困と、逆境ののちに、彼はようやく人生の黄昏を楽しむことができるようになったのです。
若く、美しく、裕福で、有力者の知己に恵まれた妻と共に。
彼女はフランス貴族や上流社会の多くの人々を彼に紹介しました。メラニーはハーネマンに、自分と一緒にパリに来るように説得したのです。
楽しく安らげる生活を約束し、またフランス社交界がホメオパシーを賞賛し、多くの人々がホメオパシーを望んでいることを伝えました。
しかしフランスへ戻る長く骨の折れる旅の後、彼女は、ハーネマンにもう一度診療をするよう説き伏せました。
診療行為はおそらく老境のハーネマンにとって楽なことではなかったでしょうが、しかしこのことで、彼は新たな試みの機会を得、LMメソッドを確立することになったのです。
ハーネマンはフランスにおいて大きな冨と成功を得、彼の「最も完全で最高の方法」を「オルガノン」の第6版に結実させました。
この原稿は1843年にハーネマンが死んだとき、出版社のもとにありました。
そして1920年になるまで出版されることがなかったのです。
(※当内容はハーネマンアカデミー主任講師キム・エリア先生の講義資料を抜粋・編集したものです)